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■[ルーヴル、知られざる絵画 2]
ルーブルに於けるアンナ・フォン・クレーフェの肖像画
元英国ガイド協会会長 稲垣由美子氏からの寄稿

  一昨年、ルーブルを訪れた折、肖像画の部屋を覗き、偶然にも本で幾度となく出会っていた懐かしいアン・オブ・クレーヴス(英語ではこう呼ばれています)と出会いました。ハンス・ホルバイン(子)が描いたアンは、静かに目を下に向けエレガントだが、手を大きく描いて真正面を向かせたポーズは威厳に満ちています。どういう経緯で、ロンドンからパリにやってきたのかしら?と思いつつ彼女の奇異な人生に思いをめぐらせてみました。この絵は1539年にヘンリー八世という合計6回も結婚した英国王の、4番目の妃候補の現在ならお見合い写真ともいえる肖像画です。王は、最初の結婚は兄の未亡人。別の女性との結婚を望み、離婚が認められないカソリックからプロテスタントへと国教を変え、2番目の結婚。又違う人と結婚したくなり彼女に無実の罪を被せ断頭台に送り、3番目の妃は産褥熱で死亡したので、4番目の妃を求めていました。
  この結婚は、カソリック国であるスペイン、フランスとの対抗という目的もあり、プロテスタントのルター派のリーダー、今はドイツに位置するゲルダーラントのクレーヴス公ウイリアムの妹である24歳のアンを、王の相談役であるクロムウエルは薦め、婚約が整い1540年の元日、ロチェスターでふたりは初対面しています。その時見たアンの容貌があまりにも肖像画と違う為にホルバインに激怒し、彼女に失望したというのが定説でしたが、現在では、それよりも、アンが英語をまったく理解できない事、女性のたしなみや裁縫などの教育は受けてはいても、王が好む文学や音楽に無知である事、又、王の好みのタイプは陽気で、楽器を奏でたりゲームを一緒に楽しめる美人だが、彼女は正反対のタイプである事等の方が大きな理由ではないかとされています。なぜなら、ホルバインはその後も宮廷の絵画も手がけており1534年に43歳で疫病で歿するまでロンドンで活躍していたので、アンの天然痘の痕を描いてないのは責められましたが、実際とそれ程大きく差異はないのではないか?多分王が期待をふくらませすぎたのでは?等との意見が出ています。しかし、画家は彼女の顔よりも衣装に凝っているのも事実です。ともあれ、王はアンを気に入らず、一応形だけ1月6日の十二夜に結婚式を挙げ、その後、アンの待女であったまだ20歳前後の奔放で魅力的なキャサリンに魅かれ、アンとの結婚解消を急ぎ、アンがかつてロレーヌ公との婚約を正式に解消していないので王との結婚は元々無効というもっともらしい理由をつけ、この年7月に正式に結婚を解消し、アンも素直に受け入れ、城館、所領、年金、「王の妹」の称号を王から受けました。アンは最初と2番目の妃の悲劇を繰り返したくないと思ったのでしょう。しかし、この結婚を進めたクロムウエルは処刑されました。その後、キャサリン妃は浮気をし不貞の罪で2年後に斬首刑、6番目の妃は王より長く生きましたが、アンはこの妃より10年も英国で安楽に長生きし、王の長女のマリーの戴冠式にも出席し、亡くなる際には貴賎の差なく彼女に仕えた全ての人々に贈り物を残したといわれています。ヘンリー八世の6人の妃の内、王室直属のウェストミンスター大寺院に埋葬されているのは、アン・オブ・クレーヴス唯ひとりです。政治的には、スペインとフランスのカソリック勢力に対抗するだけの力をプロテスタント勢力はまだ持っていないので、イギリスとしては刺激するのを避けたいという事情もあったのではとも言われています。この肖像画はそういう訳で大変興味深いものです。

(写真) ルーヴル博物館リシュリュー翌3階に所蔵


稲垣 由美子 (元英国ガイド協会会長)
>>ロンドンガイド協会のパリガイド協会訪問記






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