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■リヨン、クロワルースを訪ねて <1998年世界遺産指定>
リヨンの街の見学を始めるにはまず殆どの人が仏3大広場のひとつのベルクール広場のあるプレスクイル地区、あるいはソーヌ河面より西に170mの高さのフービエールの丘から始めるだろう。が今日はプレスクイル地区の北側の斜面に現存するカ二ユーの街クロワルース地区を訪ねることにいたしましよう。
*クロワルースの名の由来赤っぽい色f<花崗岩或るいはローズいろの石灰岩>で出来た十字架が今はもう存在しない<仏革命時になくなる>交差点に建てられていた。
【歴史】
この地区も当然リヨンの歴史と共に発展して来ました。紀元前のゴロワ人の村がソーヌ河とローヌ河の合流点に存在しておりこの合流点という意味からコンダットと呼ばれる地区だった。
その後ジュールセザール卒いるローマ軍が紀元前58年に現フランスの征服にやって来る. これを迎えたのはベルサンジェトリックス卒いるゴロワ軍でブルゴーニュ地方のアレジアで紀元前48年僅かな力の差でゴロワ軍の敗戦となりこの2種の人種は平和に交ざり会ってゆく。この地には今も廃墟として残る円形闘技場を建設する。
この地区がもう一度歴史のページに登場するのは16世紀頃からの絹織物の発展の頃からである。
【絹の歴史】
中国で発明され1466年仏王ルイ11世の推奨で輸入され16世紀には膨大な桑の木の植林がなされ当然蚕の飼育をし17世紀ルイ14世時代にも発展をつずけ 仏革命時より下火になる。19世紀初頭マリオ ジャカーが従来の機械の6台分を1台で織る機械を発明しリヨンの絹織物産業の最盛期を迎えることいなる。3万人のカニュウ<絹織物の職人>たちのかもし出す機械の音でこの斜面の通りは華やいだ。19世紀後半 シャルドネ男爵が人絹を発明し従来の華やかな火が序じょに消えてゆくこになる。
1970年頃 この丘の斜面の建造物の破壊が大大的に始まるが75年プラド市長の意見でこの破壊が中止されもう一度カニュウの町に人びとが住みだす。以前からの住人、若者たち、そして移民の住居となって行く。80年代不動産会社が大きく動きだし現在も再開発の工事があちらこちらでつずいている。
高齢者たちは他地区に移らず住みつずけており新しくやって来た若者たちはアーチスト、デザイナー、建築家といった職種の市民たちがアトリエを持つ、新しいカニュウたちである。リヨンではフウビエールでは祈り、クロワルースでは働くという表現をする。
【追記】
リヨンのだまし絵ー60年代に黒ずんで来た街の建物の壁に若者たちが協会を作りだまし絵を描きだした。カニュウの壁は1987年に描かれ1200m2にカニュウの生活が描かれている。リヨンの名物、ギニョールと奥様,マドウロンの絵もほほえましい。
石原 みね
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