|
TOPページ >> パリ近郊・芸術家に愛されたイルドフランス >> 世界遺産 フォンテーヌ・ブロー城
■世界遺産 フォンテーヌ・ブロー城
美しい森の中に泉がわき、そこに城が建てられ宮廷が行幸したのは、どれほど昔のことでしたか、文献に出てくる初めは、平安の末期、平清盛さんが二十代の頃。以来、王家の人々は足しげく通い、フランソワ一世はルネッサンス様式で大増築。以後三百年の間、王家の人々が仕事に、遊びに、情事に憩った城。大革命にも生き延び、ナポレオンも好んで宮廷をおいた。
|
|
|
ルネッサンス以前の中世城砦は、本丸の王の寝室が中心にあり、窓は東向き。改築時にもこれを保存し、この伝統はヴェルサイユ宮の「大理石の中庭」にも引き継がれた。窓際に見えているのは、戸棚ではなくて、壁の厚さ!
|
|
|
王の寝室の隣りは、控えの間。王が食事をしたり、重臣会議が開かれた。十八世紀、ルイ十五世の時代に壁をくり貫き、二つの部屋は合わされた。壁の厚さが見えている、約二メーター半!ミサイル攻撃されても持ちこたえそう。
|
|
|
世紀末の1599年 4月 5日、復活祭を前にアンリ四世は最愛の寵姫ガブリエルさん(右)を送って、フォンテーヌ・ブロー城を出発。復活祭後に結婚すると約していながら、国王の役目としてはメディチ家のマリーを娶らねばならない・・・セーヌの波止場で別れたガブリエルさんは、パリに向かい、謎の死をとげ、帰らぬ人となる。
>>「所詮無理な恋でした」
|
|
|
1601年 9月 27日午後10時 35分、大変な難産の末、マリー王妃は男子を出産した。後のルイ十三世である。親王、内親王たちが現場検証し、アンリ四世が部屋の扉を開くと、外で待ち構えていた200人ほどの宮廷人たちがなだれ込んできた。
王妃は未だ分娩台で倒れている。揉みくちゃにされて息もできない。「この子はみなのもの。みなで喜ばねばならぬのじゃ」
|
|
|
王妃(皇后)の寝室。ルイ十三世は上記の部屋で生まれているから、恐らくその時はまだ完成していなかったのだろう。が、以後19世紀第二帝政皇后まで、時のファースト・レディが使用した寝室。1661年11月 1日ルイ十四世(23歳)の王太子が誕生。身重の妻に退屈していたルイは実弟オルレアン公の妃、ヘンリエットに横恋慕、追いかけ廻しスキャンダルを巻き起こす。ルイ十四世にとって生涯忘れられぬ青春の思い出。
宮廷がヴェルサイユに定められてからも、毎年九月、あるいは初春の天候が良くなったころ、頻繁に行幸して来た。ヴェルサイユの宮殿ではあまりにも仕来り(エチケットと呼ばれた)がうるさくて窮屈であった。フォンテーヌ・ブローの別荘ではエチケットは簡略化され、広大な森に出て狩をし、運河で船遊びし、池の東屋でピクニックをして憩いながらも仕事をした。
いかにも、八百年の間フランス最高権力者が最も好んだ美しい地である。
|
|
|
|
|
本サイトはフランス日本語ガイド通訳協会(AGIJ)の公式サイトです。
紹介頂く分にはリンクフリーですが、個々の記事、写真等の無断転載はお断りします。
|