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■St.Jacquesの塔は大巡礼の出発点だった!

 車で大混雑するパリ右岸のリヴォリ通りとセバストポール大通りの交差点。ここに不思議な塔が建っています。何故こんなところに、と思わせる塔です。16世紀初頭に造られ現代の建物を見下ろしているのです(写真1)。しかし、車や人が多く喧騒なところで、しかも辻公園の中にありますからこの塔に気付く人はほとんどいないでしょう。塔は教会の鐘楼で、サン・ジャックの塔と言います。ノートル・ダム大聖堂の鐘楼(69m)に対しては控えめですが、サン・ジャックの塔はそれでも52メートルもあり、凱旋門(50m)より高いのです。
 

写真1
 
 実は、ここにサン・ジャック(聖者ヤコブ・ホタテ貝が象徴)を祀る聖堂があり、聖堂は中世時代最大のイヴェントであったサン・チャゴ(スペイン)巡礼の巡礼者たちの集合・出発点になっていました。これがサン・ジャックの塔の一番価値ある歴史的ポイントです。塔そのものは16世紀初頭のもので教会の南側に建てられましたが、中世後期のゴシック・フランボワイヨン(爛熟ゴシック・火焔型装飾)スタイルで建てられています。しかし、聖堂の本体そのものは全て消えてしまいました。中世時代最大のイヴェント、サン・チャゴ巡礼を象徴していたからでしょうか、王(近世)のみならず神(中世)をも否定したフランス大革命の時に破壊されてしまったのです。そして財政難打開の為、壊された聖堂の石は販売されてしまいます。かろうじて塔だけはある建築家の機転で救われました。建築家にとって塔そのものに建築的価値を見出したからでしょうし、またここで17世紀、天才パスカルが塔に登って気圧の研究をしたからかも知れません。したがって19世紀にはしばらく天候観測所としてサン・ジャックの塔は使用されます。そして記念に天候観測の神様パスカルの像が置かれました(写真2)。へクトパスカルとして日本でも天気予報で良く使われていますおなじみの言葉は計算機の元祖でもありますブレーズ・パスカルに由来します。
 

写真2
 
 中世時代初期(5−10世紀)、フランク王国は大変でした。異民族の移動が続いたからです。フン族、サラセン民族の侵入と続き、それを乗り越え、シャルルマーニュが王国を帝国までにしましたが、帝国分割を機会にバイキングがパリを襲ったのです。現ヨーロッパの原型を創り上げたシャルルマーニュ、そのシャルルマーニュを継いだルイ1世が没した840年に兄弟3人が大帝国を分けたのが原因します。帝国を3等分したために亀裂が入り、兄弟間の争いの間隙を突きバイキング(ノルマン人・北の人)が侵入したのです。パリはバイキングにほとほと困り果て、パリ市民はシテ島に閉じこもって出ることができません。やっと911年にシャルル王がセーヌの支流エプトから海までの領地を与えるとフランク王国は落ち着いていきます。これが現在でもエプトから海まで拡がるノルマンデー地方です。また余談ですがエプト川の水をもらって造られているのが画家モネの日本式庭園です。   
 人口も増加し島から出たパリジャン達は右岸に左岸に街を造っていきます。そして町を護るために12世紀末、フィリップ2世(モンサンミッシェルのメルヴェイユ建立王)は市壁でパリを取り囲んでいきます。加えて西手に堅牢なルーブル要塞城(ルーブル美術館の地下に遺跡あり)を建立することになります。このころからサン・ジャック聖堂の近くには肉屋さん達が店(boucherie)を開き始め共同体を作り、サン・ジャック聖堂の修復や新築工事に貢献していきます。したがって、サン・ジャック聖堂の正式の名前はサン・ジャック・ド・ラ・ブッシュリ Saint-Jacques-de- la-Boucherie と言うのです。しかし、使徒ヤコブ(Jacques)はもともと魚獲りでホタテ貝をシンボルしており、レストランのメニュでSaint Jacquesとありましたらホタテ貝料理のことになりますから、もし歴史を変えることが出来るならば、このあたりには魚屋さんの共同体があれば良かったのにと思います。事実は肉屋さん達の共同体が出来上がり、今でも近くに<なめし皮業川岸quai de la megisserie>という通りがあることは近くに肉屋さん共同体が歴史的に存在したことを証明しています。   
 サン・ジャックの塔のある辻公園は19世紀都市計画の統一的な建築群の中で潤いの場、憩いの場になっています。この時代の面影を求めて、塔から始まる巡礼道を、シテ島ではノートル・ダム大聖堂を左手に見ながら歩いて下さい。道は左岸に入るとサン・ジャック通りと呼ばれ、ソルボンヌ大学が見えてきます。このような巡礼道が出来ていたからこそ、サン・ジャック通りに神父ロベール・ドゥ・ソルボンは神学校を創立したのです。また現ソルボンヌ大学正面と向かい合ってクリューニー修道院長の館があります。かつて西洋一の神学校だったソルボンヌの前に西洋一多い修道院を有していた修道院長の館がある。その館を中世博物館にしていることは博物館の価値をいやが上にも高めています。ついでにサン・ジャック通りを登りきると左手にマリー・キュリー夫人も眠るパンテオン(共和国霊廟)が現れます。ここまで来ましたらパンテオン裏手にある名門アンリ4世高校校門前のクロービス通りに入り、奥まで行って下さい。すると、下り坂に見事なフィリップ2世の市壁が忽然と現れて来ます。
 パリの街角に中世時代の面影はほとんど消え去りましたが、中世時代最大の巡礼地サン・チャゴへ至る道に少しは中世時代の面影の発見があります。その出発点がサン・ジャックの塔なのです。

協会HP文化部
 

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