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TOPページ >> パリ・散策 >> シリーズ「パリを歩けば…」
■メートル原基発見!
新年明けましておめでとうございます。今年は戌年。犬の好きなフランス人も喜んでおります。日本では<犬も歩けば棒に当たる>と言う慣用句がありますが、協会スタッフも戌年に縁起をかついでパリの街を歩き回るつもりです。出歩いているうちに思いがけない発見があるに違いありません。実際、早速、正月早々参議院のあるルクサンブール宮殿前を歩いていましたら本当に棒のようなものに当たりました。隣に記念碑がありましたので訳してみました。
『国民議会はメートルシステム使用普及のため、パリで最も人の行き交う場所に16個のメートル原基を設置しました。これらの原基は1796年2月から1797年12月にかけて設置されました。ここにあるものはパリに残る2基のうちの一つで、場所を変えないで在る唯一のものです』 私達が日頃使っていますメートルはフランス大革命が産んだものでした。
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■街角に咲く巨大な花
新しい年を迎えたパリの街角に今、巨大な赤い花が咲いています。実はこの飾り、ある銀行がリュック・ベッソン監督の子供映画のキャラクターを使ってパリっ子たちに貯金を呼びかけているのです。誘うような真紅の花は巨大なコクリコでしょうか?2006年が<花開く年・豊かになる年>でありますようにと祈ってるようです。
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■ワラスの噴水
パリの街を歩いていて時に出会う<ワラスの噴水>は街角に残された昔のパリの風物詩のようです。現代パリっ子たちはただその傍らを気にもかけずに通り過ぎてゆきます。でもこの<ワラスの噴水>には悲しいパリの歴史が隠されているのです。見た眼にはギリシャのカリアチッド(女人像柱)を思わせる4体の女性像。脚腰に豊満性を湛え、髪をイオニア式に結び、眼を閉じて静かに天蓋を支えています。天蓋からは飲み水が流れ落ちる仕組みになっています。西洋では古代から潤すものはよく女人像で表してきました。時は1871年を迎える真冬、パリはプロシャ軍に幾重にも包囲されていました。兵糧攻めにあった挙句に<ねずみ一匹が2,3フランで、犬の肉1ポンドが5フランで売られた>(桂 圭男著 パリコミューン)ほどだったのです。街から動物が消えたと言われています。そして浄水も当然不足していったのでした。
この噴水はパリを愛した財政家であり博愛主義者のイギリスの富豪ワラス(Richard Wallace 1818-1890 当時ブローニュの森にバガテル庭園と城を所有。絵画収集家。英国Wallace Collection国立美術館ではフラゴナールの<ブランコ>が有名)が戦争の悲惨を味わったパリジャンたちに心を痛めて、後ほど50ヶ所の街角にプレゼントしたものなのです。ワインを水代わりに飲んでいたパリジャンたちは大喜びで、<ワラスの水>を求めて喧嘩になるほどだったそうです。レプリカまでできたほどでした。年々街角から消えていき、もう水も出なくなっているワラスの噴水。この写真が貴重な一枚にならないことを祈るばかりです。
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■メジチの泉
立春も過ぎたのに今年は異常に寒い日が続いています。でもよくまわりを見ますと街角の鳩たちや梢の小鳥たちの動きがソワソワとしてきました。恋しくなる季節でしょうか?ヴァレンタインデーが近づいているパリのショーウィンドーは今、ハートの飾りでいっぱいです。
バレンタインという人はキリスト教が公認されなかった時代の殉教者で、たまたま2月14日がこの聖者の日になったのですが、この頃には春を告げる自然現象が起こります。そう、小鳥たちがさえずり始めるのです。こうして聖者ヴァレンタインの祭日は恋を告発する日になったということです。
<メジチの泉>という恋人たちの密かなデート場所がリュクサンブール公園にあります。写真を見ますと、白い恋人たちが岩陰に隠れて愛し合っているところを岩の上から黒い大男が覗き込んでいますね。二人は夢中になっているので気づいていません。でも巨人の左右にいる人物はもう既にこれから起きる悲劇に気づいているようです。
力のある男よりも優しい羊飼いを愛したガラテ。ガラテは恋の虜になっていて泉が湧き出る音も、彼女に熱情している巨人の嫉視にも全く気づいていないのです。羊飼いは岩石につぶされて死んでしまいます。彼の流した血(あるいはガラテの流した涙?)は乳になって白く流れたそうです。
この噴水はブルボン家に嫁いだメジチ家のマリー王妃が故郷を偲んで作らせたものですが、19世紀半ばの都市計画でメジチ通りを造ったために大幅に改造されており,写真に見られる噴水の設計はアルフォンス・ド・ジゾウ(Alphonse de Gisor)、彫刻はオッタン(Ottin)が携わりました。マリー・ド・メジチ王妃の時代の面影はむしろこの写真の裏手の方にあります。<メジチの泉>は王妃の造らせたルクサンブール宮殿の方を向いていなかったのです。(協会編集部)
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■サマータイムに入った最古の大時計
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かつてフランス王が居住し政治・経済・文化の中心であったシテ島にパリで最古の大時計があるのをご存知ですか?ロンドンのビッグベンより知名度は低いですが、ビッグベンよりずっと歴史のあるものです。
この大時計のある塔を両替橋から眺めますと(写真)、もともと塔は最上層部に巡回路を持つ闘いのために造られたものであることが分かります。当時は橋の上にも家を造り人が住んでいたのですが、両替橋には軒を並べて両替商たちが住んでおり、店を開いていたのです。日本で言ったら両替橋は銀座みたいなものです。そして時代は太陽の動きで商いの時刻を決めない正確さを要求していました。百年戦争で疲弊した経済を建て直すために,賢王と言われたシャルル5世(1364−1380在位)は防衛の塔を時計の塔にしたのです。
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現在の大時計(写真)はバロワ朝最後の王、アンリ三世(Henri III 16世紀)の時代に造り替えたものです。時計の下のラテン語碑文には<(時)に正確な12のパーツを与えしこの機械は正義を保護し法を守るを諭すものなり>と刻まれています。
毎年、3月の第4日曜日に時計を一時間早くしてサマータイムに入るヨーロッパ。パリの街角にある古い大時計も時代に合わせてサマータイムに入りました。 (協会編集部)
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■アラゴのメダル
ダヴィンチ・コード以来有名になった<アラゴのメダル>。
パリの子午線上にメダルは合計135枚あります。
北はパリ18区モンマルトルの丘の裏から、オペラ座の東側を通り、ルーヴルの中を走って、セーヌ左岸ではリュクサンブール公園からパリ天文台北庭を通過して南は大学都市のカナダ館まで。
一枚のみがアラゴ(ARAGO)を記念する台座に垂直に(写真)、他の134枚は地面にはめ込まれています(写真)。ところで、アラゴとはどういう人物だったのでしょうか。少し調査してみました。
フランソワ・アラゴ(Francois Arago)は1786年に南仏ペルピニャンPerpignan近郊の小村エスタジェルに生まれた人、数学者、物理学者、天文学者、更に政治家として19世紀を生きた才人です。
1806年20歳の時、メートルの正式な長さを規定する目的で行なわれた子午線の測量調査に参加しています。この測量はフランスを通過してバルセロナを経由しバレリャス諸島に至るものでした。しかし、時はまさに仏大革命の真最中で、仏軍のスペイン侵入と重なりスパイ容疑で捉えられ、スペイン、アルジェリアを流浪した末、1809年に帰国しました。
その後、23歳で科学アカデミー会員に選出され、エコール・ポリテクニック教授、天文学者と輝かしい経歴を積んでいます。そして1830年44歳の時にパリ天文台館長に任命されています。
アラゴは物理学の分野で光学研究、蒸気の温度と圧力の研究、音速の研究、磁気の研究(アラゴの回転盤)などを重ね、次々と秀れた各種の発見をし、また天文学では火星と月にあるクレーターに<アラゴ>の名が、海王星にも彼の名が<アラゴ環>として残されるほどの大発見をしています。
研究家としての人生から一転して政治家として活躍するようになるのは60代の頃、1848年の2月革命以降は共和主義者として臨時政府に参加し、海軍大臣、陸軍大臣のポストに任命され、仏植民地での奴隷制の廃止を成し遂げたのです。
このような偉業を為したアラゴを記念した像が天文台近くの子午線上に建立されましたが(写真)、第2次世界大戦中に溶かされてしまい、今では台座のみが残っています。場所はパリ天文台の白いドームが望める静かな広場Place de l'Ile de Sein(Metro:St-Jacques)です。
ダヴィンチ・コードを少々真似て、<アラゴのメダル>探しをパリでやってみるのも面白いのではないでしょうか?
吉村 資子
>>プロフィール
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■TGV、セーヌを走る!
新幹線の世界的なライバルであるフランスTGVがパリの橋の下に出現し、セーヌを走りました!
これは、自らのスピード記録を大幅に更新したことを祝い、またTGV新路線を宣伝するためのデモンストレーションでした。銀色に輝く流動的なデザインボディーを誇る世界一のTGVが突然セーヌの上に現れたので、日曜日の昼下がり、セーヌ河畔を散策するパリジャンやツーリストは唖然、呆然、、、度肝を抜かれました。
新しく開設された路線で、4月(2007)、TGVは何と時速574.8Kmを出し、エクレア(電光)の如く空翔けるように走ったのです。フランスの大地は地震も無くかつ平坦ですのでまたこのような驚異的なスピードも出せるのです。
新路線はパリとアルザス地方・ストラスブルグStrasbourg(490Km)を結びます。東駅(Gare de l'Est)から、6月10日オープンです。
この新TGVによりパリ・アルザス日帰りツアーも企画できるようになります。今年のツーリスムスポットには、白ワイン、ビール、フォアグラ、郷土料理、コウノトリで知られるメルヘンチックなアルザスが人気を呼びそうです。
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■カルチェの歴史
先日、カルチェ・シャンゼリゼ店にガイド協会の会員が招待されました。
シャンペングラスを傾けながら、久しぶりに会う会員達との歓談、店内案内、その上カルチェの歴史の講義がありました。それが私達ガイドにとりまして大変興味深い、有意義なものでしたので、ここに参考までに書かせて頂きます。
カルチェの歴史は、一代目のルイ・フランソワ・カルチェが、1847年にモントルグイユ通りあった師匠のアトリエを買い取ったことから始まります。その後、ナポレオン一世の従妹のマチルドが常連客になり、彼女がナポレオン三世の皇后ウジェニーを紹介したことから、店は大きく発展し、その頃には、当時一番人通りの多かったイタリアン大通りに店を移しています。
二代目のアルフレッド・カルチエは、第二帝政崩壊とともにイギリスに亡命し、これがきっかけとなって、ビィクトリア女王をはじめ英国王室のメンバー、インドのマハラジャ、フランスから亡命中の上流階級の人々と知り合う機会に恵まれ、彼らが後のカルチェの上客となるのです。
三代目、ルイ・ジョセフ・カルチエが、現在カルチェの本店である、皆様もよくご存知の13 rue de la Paix に店を構えます。ここはチュルリーとオペラの中間に位置し、デパート街の喧騒からほんの少し離れた、宝石商としては理想的な場所でした。又、当時としては珍しく、電話を置き、電気を使い、配達用の車まで持っていたそうです。
三代目の息子達、ルイ、ジャック、そしてピエールの3人が、世界各地に飛び、宝石商としての揺るぎない地位を確立したのです。
1902年にはカルチェ、ロンドン店がすでにありましたが、1909年からは、現在の175-176 New Bond Street に移転しています。
イギリスでの成功は、エドワード七世戴冠式の為、カルチェが27ものチアラの注文を受け、それをたった一年間で制作、納品したことです。
その機会に、初めて軽く、変色もしない、使い心地の良いプラチナが装飾品の材料として使われました。ウエストミンスターでのエドワード七世の戴冠式には、全てのプリンセスがカルチェのチアラを頭上に輝かせて出席したのですから、その宣伝効果は絶大なものでした。
これをきっかけに、カルチェは、王室御用達の肩書きを英国王室から頂戴し、その後、ロシア皇帝、ポルトガル王室、シャム王室など、15カ国もの王家御用達宝石商となったのです。
この時代の注文品の中で特筆すべき物は、インドのマハラジャが注文した、真ん中に234カラットの黄ダイヤモンドが付いた、総ダイヤモンド1000カラットというネックレスです。マハラジャは、これをたった一回しか付けなかったそうです。現在このネックレスは、カルチェ・コレクションに入っています。
カルチェ・コレクションは、1983年から集め始めた、カルチェの商品1300点余りを有し、その中には、ルイ十四世所有のダイヤで、フランス大革命の時に消えてしまい、<不幸を呼ぶ>、と言われた伝説のブルー・ダイヤもあります。
カルチェ・コレクションは世界中を巡回展示していますので、いつでも見られるという訳ではありません。
1907年には、サンクト・ペテルスブルグのヨーロッパホテルで、初めてカルチェがロシアでの展示販売会を開催しています。それ以降、皇帝ニコライ二世の御用達宝石商の肩書きをいただくのですが、ここには、出張所しか置きませんでした。その後、ロシア革命が勃発しますので、良き判断だった訳です。ロシアからの影響で、七宝、卵のモチーフなどがカルチェに入ってきます。
1917年には、現在もあるニューヨーク、653 Fifth Avenue にブティックをオープンしました。この建物は、実は、カルチェの上客モルトン夫人の館でした。夫人は、多くの夫人達がそうであるように、美しい家、美しい宝飾品が大好きでした。彼女の1916年の誕生日の為に、カルチェが世界中から、最も美しい、完璧な真珠を探し出し、見事に作り上げたのが二連の真珠のネックレスでした。その値段が何と百万ドル!現在の値段にするとその約40倍だそうです。しかしながら、愛する妻を喜ばせたい銀行家の夫は、そのネックレスの代金を現金では払えず、フィフィス・アヴェニューの美しい館と交換して支払ったのでした。
1904年には、ルイ・カルチェの友人、ブラジル人の飛行士サントス・デュモンの為に、懐中時計の代わりに、見やすい腕に付ける時計を作りました。これが有名な時計の<サントス>シリーズです。女性が懐中時計にリボンを結び、手に付けるということが流行になったことはあったようですが、腕時計を商品化したのはカルチェが初めてです。
1910年には、カルチェの頭文字Cを組み合わせた商品を生み出し、1914年には初めてパンサーをモチーフにした商品が出現します。<パンサー>シリーズでは、1948年にウィンザー公がシンプソン夫人にプレゼントした、152.35カラットのサファイアの上に乗っている、目には黄ダイヤ、身体にはダイヤとサファイアをちりばめたパンサーが大変有名です。
1919年には、戦車をイメージした<タンク>シリーズが商品化され、1989年には<タンク・アメリカン>、そして、1996年には<タンク・フランセーズ>シリーズが売り出されています。
1924年には<トリニティ>シリーズの指輪、ブレスレットが発売されました。
カルチエの大フアンであったジャン・コクトーは、ルイ・カルチエからこの三輪の指輪をプレゼントされています。このシリーズには、三種類の色が使われていますが、ローズ色は<愛>、白は<友情>、黄色は<忠誠>を意味しているそうです。又、ジャン・コクトーは、アカデミー会員に選出された折、その式典用のサーベルをカルチエに造らせています。
1938年には、当時世界で一番小さなブレスレット時計を、後に女王になる、イギリスのエリザベス王女にカルチェがプレゼントしています。
ココ・シャネルの友人でもあるジャンヌ・ツーサンがカルチェに入社してからは、アクセサリー部門<S>が新設され、銀で、ライター、ベルト、ブローチ等も作るるようになります。彼女は1933年に総支配人になり、20年間製品開発部門の中心的存在でした。この時代に、旅行用鞄なども商品化されています。
1969年には、リチャード・バートンがエリザベス・テーラーに贈った69.42カラットのネックレスが話題になりましたし、1970年には、カルチェ・ニューヨーク店で<LOVE>シリーズのブレスレットの発表が大評判になりました。この<LOVE>シリーズは、再び去年から大キャンペーン中で、今では、ネックレス、指輪なども商品化され、若い人たちにも買える値段で受けているようです。
1973年には、<Les Must de Cartier>シリーズが造られ、1974年には、かの有名なボルドー色の革製品が売り出されます。1981年に発売された香水の<must>は女性用、<santos>は男性用です。
1978年からは、カルチェの時計として初めて、金とステンレスを使用した<サントス・デュモン>を発売しています。
1983年には、チュニジアで、カルチェでは初めてのサングラスが商品化される為のイべントがあり、1997年のカルチェ150周年には、モニカ・ベルッチイがアニマリエ・シリーズのエメラルド、ダイヤの付いた<セルパン=蛇>のネックレスを付け登場し、たいへんな話題となりました。
1973年に世界に三店しかなかったカルチェは、現在、全世界に250店舗を持つ巨大な企業に発展しています。数年前から、ヴァンクリフ・アルペルはカルチェの傘下に入っています。
カルチェは、文化活動にも力を注ぎ、1994年には、建築家ジャン・ヌーヴェルを起用し、左岸に現代アートの為のカルチエ財団を開設して、興味深い展覧会を開いています。
この世界一の宝石商が、世界で最も美しい通りと言われるシャンゼリゼに、ヨーロッパとしては最大級のブティックを誕生させたのは2003年のことでした。
このブティクでは、カップルが婚約指輪、あるいは結婚指輪を求めに来店した場合には、凱旋門の見えるサロンにお通しして、シャンペンを飲んで頂きながら商品を選んで頂くのだそうです。何か雰囲気が良すぎて、何でも”ウィ”と言ってしまいそうです。
私達ガイドも、夏の長い夜の一時、シャンペングラスを傾けながら、ダイヤモンドの装飾品に囲まれ、カルチェの歴史を聞くにつれ、まさにここは夢を売る超一流の宝石店であることを実感した一夜でした。
松下 光子
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