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■2012年 ジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)600才

 
 フランスの歴史的人物で、日本人でも知らない人はいないジャンヌ・ダルクが2012年で600歳を迎えました。生まれ故郷ドムレミーでは大統領出席のもとに生誕祭が催されたぐらいで、今でもジャンヌはフランス人の心の中に生きています。ジャンヌ・ダルクの誕生日は1412年1月6日です。
 そこで、2012年の旅の企画にガイド協会は<ジャンヌ・ダルクを訪ねる旅>をここに提案致します。ご参考にして下さいね。
 
パリPARIS;ピラミッド広場のジャンヌ・ダルク騎馬像(写真1)に献花。この像はモンサンミッシェルのミカエル大天使像作者と同じフレミエ。百年戦争で彼女が傷の手当てを受けた処に騎馬像はあります。ルーブル美術館は目前。彼女の時代、パリはすごく小さかったのです。そこで、ルーブル美術館の地下に降りて幅30メートルのお堀(写真2)を見に行くのもいいですね。ついでに美術館に入り巨匠アングルが理想化して描いたジャンヌ・ダルクの肖像(写真3)を鑑賞するのも良いでしょう。

写真 1

写真 2

写真 3
 
ドムレミーDOMREMY; 生まれ故郷の村の訪問。わずか155人ほどのドムレミー村ですがジャンヌの生家や当時の教会が保存されています。また丘の上にはジャンヌを祀る聖堂があり、眼下にオランダへと流れるムーズ河が見られます。風景は神秘的です。ロレーヌ地方の中心都市ナンシーまでパリ東駅からTGVで行き(1時間半、1日16本;例9:05−10:35)そこから南西に数十kmの村まではレンタカーで如何でしょうか。ドムレミーはパリから東へ320kmほど離れた村です。
 
シノンCHINON;14世紀の継承問題を契機とした英王国との戦争は泥沼化して行き、皇太子・シャルルが逃亡し拠点にしていたシノン要塞城。シノンはロワールの支流ヴィエンヌのほとりにある町。ここに黒い馬に乗り10日ほどかけて夜移動してきたジャンヌは現れます。廃墟になっても誇り高く丘に屹立する要塞城ではジャンヌがシャルル皇太子と会見した場所など訪問出来ます。眼下には15世紀の面影をとどめる綺麗な街並みが広がっています。また、ワインCHINON(写真4)はロワールのお城の地方で最もおいしい赤ワインです。TGVでTOURS(ST.PIERRE DU CORPS)まで行き(1時間)、南へ46kmのシノンまではレンタカーで行けます。人気のあるロワール河お城のツアーでも時間がなくなかなか行けないところですのでシノン訪問は忘れ難い旅になる事でしょう。

写真4
 
オルレアンORLEANS;ジャンヌ・ダルクは<オルレアンの少女>と言われています。いよいよ旅はクライマックスです。英国軍が町を包囲し占拠すればカレー(ドーバーの対岸の町、彫刻家ロダンの<カレー市民>で有名)の町のように半永久的拠点になってしまうという絶体絶命の危機に陥ったフランス王国。ミカエル大天使の声を聞き救国の信念に燃えたジャンヌはフランス王国軍を奮い立たせ奇跡的な勝利を勝ち得るのです。ここに百年戦争は大きな転換点を迎えフランス王国に有利に進展していきます。オルレアンはパリから南に132km、パリ・オーステルリッツ駅から列車に乗ってボース大平野を横切りながらのんびりと行けるところです。サント・クロワ大聖堂にはジャンヌの英雄伝を物語るステンドグラスが輝き、旧市庁舎にはジャンヌ立像とアングルの絵、また彼女が宿泊した家は再復元されて興味深い博物館になっています。騎馬像のあるオルレアンの中心・マルトロワ広場での食事はいかがでしょうか。もし可能ならば勝利の日5月8日に行くことをお勧めします。この日は現在、フランス共和国第二次大戦の勝利の日にすり替えられていますが、市ではジャンヌ・ダルク祭が催されます。オルレアンに住む17歳の高校生が選ばれてジャンヌに扮するのです。
 

写真 5
ランスREIMS;勝利した後ジャンヌ・ダルクがまず取った行動は皇太子に戴冠式を挙げさせることでした。でもなぜにランスか?<時は5世紀末、ランスにてゲルマン蛮族フランクの首長クローヴィスCLOVISなる者、ローマ・キリスト教(イエスは神の子、三位一体)の洗礼をうけたり、、、>という歴史があるからです。 したがって、クローヴィスはフランス王国の始祖。一代目が洗礼された神聖な処で王になることは正統なる者である。かくして自らの正当性を疑っていたシャルルは大聖堂での戴冠式典後、晴れて内外にフランス王、その名も7世を名乗るのです。ルーブルにはシャルル7世の肖像画(写真5)がありとても貴重です。ランスはパリからやや北東に145km。TGVに乗ればわずか45分で到着します。途中、車窓右手にぶどう畑が見えてきます。ランスを訪れる日本人は実はシャンペンが目当てで来るグルメが多いのです。ジャンヌ・ダルクが戴冠式を行った都市にシャンペンがある!やがてランスは、シャンペンを現代風にしたドンペリニョン(17世紀)のお陰で祝福の都市になって行きます。この町を訪れたら是非シャンペンを味わって下さいね。
 
コンピエーニュCOMPIEGNE;戴冠式を念願通り済ませたジャンヌは栄光の極みにあった。当時、王国は不幸にも本家と分家に分裂されていた。皇太子の父シャルル6世の、時に起こる発狂が原因していた。戦いは終わったわけではない。パリが反本家に組みしていたためジャンヌはパリ解放に向かった。しかし、パリは強固な市壁に囲まれていて攻めあぐね、王からの援護もなかった。(傷を受けたサントノーレ街にはジャンヌの顔の像が、手当てを受けた処・ピラミッド広場には騎馬像あり。)そこで本家側コンピエーニュの町が危機にさらされているという情報が入ると彼女はそこへ急いだ。そして、コンピエーニュの市壁を出て戦いに挑んだ時に、、、不幸が起きる。ジャンヌ・ダルク逮捕さる!彼女は英王国に売られることになった!そして、イギリスの拠点ノルマンディー公国の首都ルーアンに護送されて行く。コンピエーニュ市は4万人ほどの豊かな町です。パリから80kmしかありませんので北駅から郊外電車に乗って40分で行けます。駅から降りるとオワーズ川が流れており、一本の橋があります。その橋のたもとに、つまり、逮捕されたところにジャンヌ・ダルクの勇ましい騎馬像があります。ついでに歴史あるコンピエーニュ宮殿訪問をお勧めします。宮殿テラスからは百年戦争時の市壁と門を垣間見ることが出来ます。
 
ルーアンROUEN;パリからやや北西に135km離れているルーアンはジャンヌ・ダルク、終焉の地で知られます。ここで19歳になってまもない少女は短い人生を劇的に閉じることになるのです。最も重い罪の者に科す火あぶりの刑によって。パリ・サンラザール駅から列車に乗って1時間ほどで行けるノルマンディーの中心都市ルーアン。駅とセーヌ河を結ぶジャンヌ・ダルク通りを下っていくとやがて町の人たちで今でも賑わう大時計通りと交差します。そこを右手に行くと奇異な形の教会が見えてきます。まるで中世時代の兜のようで僅かに開かれた眼からステンドグラスが輝いています。ジャンヌ・ダルク教会です。40年ほど前に建立されたこの教会の裏手が火刑の現場。そこには花が植えられ火刑の場を示す看板があり周りには高い十字架とジャンヌの立像があります。黙祷。危機に陥ったフランス王国を一介の田舎娘が純真な心に燃えて救い、自らは何の援助も受けず燃え盛る火の中に消えて行った。ジャンヌ・ダルクはこの瞬間からから永遠にフランス人の心に生き続けて来ました。そしてフランスの歴史を知った世界の人たちを感動させてきました。高僧による宗教的訊問にも驚くほどの明晰さで応えた少女の物語は今でも演劇、文学、映画の対象になっています。中世の時代を超えて600年、ジャンヌ・ダルクは今でもその精神性の崇高さによって現代人に迫り、現代人に自問の念を喚起させているのではないでしょうか。
ルーアン訪問のついでに思い出をたどって訪れたいのはノートルダム大聖堂の南翼廊にあるジャンヌ・ダルクを祀る礼拝堂、北翼廊から出てサン・ロマン通りの壁にある記念碑(判決文朗読の場、ルーアン焼きアトリエ店のはす向かい)、ルーアン美術館の数枚の絵画、
ジャンヌ・ダルクの塔などです。
 このようにしてジャンヌ・ダルクの足跡を訪ねる旅は終わるのですが、最後に一つ気付いたことがあります。ジャンヌが特に活躍したところ、オルレアン、ランス、コンピエーニュ、ルーアンはパリからこれらの町をそれぞれに結びますと見事な十字架になるということです。
 



浜田 達郎
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