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■ジョルジュ・サンドとコレット

  2004年はフランス19世紀の女流作家, ジョルジュ・サンドの誕生200年の年であり, また20世紀前半に活躍した女流作家, コレット没後50年の年に当たる。 それで特にサンドについては, 年始め以来彼女に関する講演会や展覧会などの催しが続いている。 これまで日本ではこの二人の作家は人生遍歴上のゴシップばかり喧伝され,作品自体はあまり評価されていなかったように思うが, 彼女たちの作家として, また女性としての活躍の跡を辿るのに丁度よい機会と思われる。

  ジョルジュ・サンドは1804年にパリで生まれ、オロールと名付けられた。4歳で軍人だった父を亡くし祖母に引き取られ、ベリ地方のノアンで成長する。母は貧しい階級出身であったため、ルイ15 世時代の名将サックス元帥の娘であった祖母は、孫の教育は未亡人になった嫁では不充分と見てオロールを手元に引き取ったのだ。その祖母を亡くした後、彼女はカジミール・デュドヴァンと18歳で結婚した。ところが夫は狩猟が生き甲斐という田舎郷士で、オロールの読書や音楽中心の趣味・教養とは異なり、19歳で息子モーリス誕生、24歳で娘のソランジュ誕生の頃から結婚生活に幻滅を感ずるようになり、彼女の男性遍歴が始まる。そして夫からの独立、つまりは自活の道を求め、パリへ出て新聞・雑誌への投稿を始める。

  1832年に初めてジョルジュ・サンドの筆名で「アンディアナ(Indiana)」と題する小説を発表し、文壇での地歩を築いた。文筆生活を始めた当初はその当時の恋人だった作家のジュル・サンドーの名を借りたこともあり、女性が知的職業で男性と同等の評価を得られない時代であった為か、作家活動が軌道に乗り始めるとジョルジュ・サンドという男性名を選んだ。サンドの作品は、若い頃は女性解放、女性の地位向上を中心に社会主義的小説が多く「コンシュエロ(Consuero)」を発表した。ショパンとの9年にわたる生活に終止符を打ち、故郷のノアンに定住する頃からの円熟期には、田園小説「魔の沼 (La mare au diable)」、「愛の妖精 (La petite Fadette)」、「捨て子フランソワ(Francois le Champi)」等の写実主義的小説を次々と世に送り、また「わが生涯の歴史 (Histoire de ma vie)」を書いた。晩年には《ノアンの奥方様 (bonne dame de Nohant)》と村人達から慕われ、フローベールやデュマ・フィス等と交流し、孫達のために幾つかの童話を発表した。1876年6月8日ノアンで71歳11ヶ月の生涯を閉じ、館の庭に埋葬された。

  サンドはその生涯を恋と熱情の赴くままに生きた女性であるが、一度も相手の男性に経済的依存をしたことがなく、作家としての稿料で彼女自身の生活と家庭を維持出来た最初の女性である。昼間は恋人として母親としてまた一家の主人として行動し、人々の寝静まった夜中に創作に専念した。多産であった彼女の文体は構成力に欠けるけると言われ現在では殆ど忘れられてしまったが、創作の傍ら恋人達、出版者、劇場主、同業の作家達に生涯にわたって書き送った3万5千通におよぶ書簡集が彼女の最高傑作と言われる。



  パリでのジョルジュ・サンドゆかりの場所

パリ市立ロマン派博物館 Musee de la Vie romantique

16 rue Chaptal, 75009 Paris
tel: 01 48 74 95 38
開館時間:10時〜17時40分
休館日:月曜日、祝日

オランダ人画家アリ・シェフェールの住居とアトリエを博物館として公開し、特に彼の活躍した7月王政(1830―1848)時代を中心に、彼の開いたサロンに集 まったロマン派の芸術家達、文学者達の資料が展示されている。近くに住んだジョルジュ・サンドも足繁く通った所であり、彼女の資料が170点以上も集められている。



スクワール・ドルレアン square d’Orleans

パリ9区の80 rue Taibout から入るスクワール・ドルレアンにサンドの住居 (N° 5)とショパンの住居(N° 9)跡を知らせる石版が貼ってある。ロマン派博物館から歩いて行ける距離なのでついでに立ち寄るとよい。二人がノアンとパリを往来していた頃の住まいで、ショパンは夕食をサンドの家で取るのが習わしだった



  アンドル( Indre)県でのゆかりの地 (車がないと訪ねるのは困難)

ノアン Nohant-Vie

○ジョルジュ・サンドの家 Chateau demeure de George Sand (18世紀)

開館時間:
4月〜6月及び9月〜10月半ば / 9時30分〜12時, 14時〜18時30分
7月〜8月 / 9時30分〜18時30分
10月半ばー3月 / 10時〜12時, 14時〜16時30分 休館日:1月1日、5月1日、11月1日、11月11日、12月25日
案内付き見学のみ。
切符売場は閉館1時間前に終了(Tel : 02 54 31 06 04 )

ラシャットル La Chatre

○ジョルジュ・サンド記念館 Musee de George Sand et de la Valee Noire

開館時間:
2月〜3月及び11月〜12月 / 9時〜12時, 14時〜17時
4月〜6月及び9月〜10月 / 9時〜12時, 14時〜19時
7月〜8月/ 9時〜19時
1月中休館 ( Tel : 02 54 48 36 79 )

ガルジレス Gargilesse-Dampierre (ノアンから約30km西 )

○ジョルジュ・サンドの家 ( Tel : 02 54 47 84 14)

開館時間:
4月1日〜10月1日 / 9時30分〜12時30分, 14時30分〜19時
ノアンに定住以後, 年に数回息抜きに出かけた所。





  シドニー・ガブリエル・コレットは1873年ブルゴーニュ地方、ヨンヌ県の小村サン・ソヴール・アン・ピュイゼで誕生。20歳でアンリ・ゴーチエ・ヴィラ−ル( 通称ヴィリー)と結婚。贅沢と賭事好きの夫はコレットの文才に目をつけ、子供時代の思い出話を基にした 「 クローディーヌ (Claudine )」 を手始めに毎年一冊づつ小説を書かせて、自分の名前で出版させた。コレットは1907年の法的別居の際にようやくその版権を掌中に収めた。その頃からミュージック・ホールに出演し始め、長年に渡ってフランス全国からスイス辺りまで興行して放浪の旅を続け、ムーラン・ルージュ出演当時はレスビアンのスキャンダルの渦中にあった。ヴィリーと離婚後 「 ル・マタン(Le Matin )」 紙に投稿していた縁で社長のアンリ・ド・ジュヴネルと出会い再婚する。娘コレット( 通称ベル・ガズー) 誕生。1920年 「 シェリ(Cheri ≫)」 出版。1922年 ル・マタンに 「 青い麦(Le ble en herbe )」の連載が始まるが、読者達の抗議に会い途中で中止を余儀なくされた。

  その後、義理の息子を愛人にしたため2人目の夫とも別れ、経済的自立を目指して美容室を開いたり、再び巡業に出たりした。モーリス・グドケと3度目の結婚後 「 コレット手帖(Cahiers de Colette )」 出版。1938年以来パリのパレ・ロワヤルに住み、1945年には女流作家として最初のゴンクール賞審査員となる。1954年8月3日81歳で死去。国葬後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

  コレットもサンドに劣らず自由奔放な人生を送ったが、2人とも文学的天分のひらめきから作家活動に入ったのではなく、経済的自立の必要から文筆に手を染め、社会道義に反しても書きたいことを書き、次第に作家として育っていった。又, 2人共子供時代を田舎で過ごし、生涯自然の中に暮らすのを好んだ。



  パリでのコレットゆかりの地

パレ・ロワヤル Le Palais Royal : 9 rue de beaujolais

1927- 29年に一度住み、同番地の別のアパルトマンに38年から亡くなるまで住んだ。道路側にも, 又彼女が関節症で車椅子生活を余儀なくされて以来いつも窓から眺めていた中庭側にも石版がある。同じパレ・ロワヤルに住んだジャン・コクトーがしばしばコレットを訪ねたが、彼のアパルトマンは36 rue Montpensier にあった。



  ヨンヌ県(車がないと訪ねるのは困難)

サン・ソヴール・アン・ピュイゼ Saint-Sauveur-en-Puisaye :パリから約200km

○rue Colette
生家は見学できないが、壁に《 コレットはここで生まれた》と記されている。

○コレット記念館
Musee Colette 村を見下ろす丘の上の廃虚となっていた城を大改造して開かれた。たくさんの資料と共に、彼女のパレ・ロワヤルのアパルトマンが再現されている。( Tel : 03 86 45 61 95)


稲葉 トモ子
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