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■アンドレア・マンテーニャ 「パルナッソス・マルスとヴィーナス」



アンドレア・マンテー二ャ「1431-1506」 テンペラ画

  金箔を地にした厳粛な宗教画が誕生した中世期以来、西洋絵画のテーマは一貫してキリスト教だった。イエスの死の苦しみ、母マリアの悲しみ、血に染まる殉教図など。恐怖で縛るような絵の前に立つ度に、キリスト教は愛の宗教ではなかったのかと問いかけたい気持ちさえすることがある。そして宗教の時代は実に長かった。ル-ブルが所有するマンテーニャ全5作品の内、3点までが宗教画であり、マンテーニャ特有の臨場感で初期キリスト教徒たちの臨終の苦しみが描かれる。だから宗教一辺倒の時代を潜るようにしてグランド・ギャラリーのほぼ中央に展示されている[パルナッソス]の前まで来ると、私は決まってほっと息を付きたい気分になるのだ。9人のミューズたちが軽やかに踊ることの出来る時代がやっと訪れてくれた…。

  アンドレア・マンテーニャは、北イタリヤのパドヴァ郊外のイゾラ村で大工の息子として生を受けた。パドヴァはルネッサンス期を持たらした画家ジョットがフレスコ画を描いたり、彫刻家ドナテロが10年間も仕事場とした為にゴシック性の根強かった北イタリヤでは、ルネッサンスの導入が最も早い町だった。パドヴァの優れた環境が10代から20代までののマンテ-ニャを育てた。そして早熟な画才を見抜きメセナの役目を果たしたのが、80キロ程西の隣国マントヴァのルドヴィーコ・ゴンザーガ候であった。候は宮廷第一画家の称号と家族丸抱えの報奨、更に家紋の使用さえ30代に成らない画家に許している。マンテーニャ自身もルドヴィーコの知的使用人として惜しみなく働き、よほどマントヴァ宮の殊遇が気に入ってしまったのだろう、候亡き後も息子のフェデリーコ、孫のフランチェスコ2世の時代まで三代同一城主のもとで75歳の一生を終えることになる。再度メセナを変えフランスの宮廷で亡くなるレオナルド・ダ・ヴィンチやメディチ家の画家でありながら晩年は二本杖にすがって町を彷徨していたと言われる、ボッチィチェルリの例もある。ゴンザーガ候一家と画家マンテーニャの出会いは、千載一遇のヒューマンな出来事だった。

  ルーブル美術館が所有する[パルナッソス]と隣に展示されている[悪徳を追放するミネルヴァ]の注文主は、マンテーニャに取って最後の領主となったフランチェスコ2世の候妃イザベラ・デステだった。彼女が描かせた数多い肖像画の中では、ミラノから亡命中のダ・ヴィンチがマントヴァ宮殿で描いた未完のデッサン画が良く知られている。里の家紋を付けた黄金色の豪華船5艘に51艘の小船を従え、里フェラーラの町からフランチェスコ2世の元に嫁いで来た。この時に16歳の若さだったが、彼女の胸には大きな夢が広がっていたのだ。イタリヤ随一のコレクターになりたい。そして集めたコレクションを収めるためのストゥディオーロを建設するのだ…。ストゥディオーロは僧院内に設けられた瞑想の為の小室に始まり、フランスでは14世紀の王シャルル5世がルーブル宮殿に設けた図書室とかアヴィニヨンのベネディクト12世が法王庁に設けた勉強部屋の先例がある。ルネッサンス期に入るとイタリヤ都市国家のプリンスたちによって、コレクション収納のための[ストゥディオーロ]が流行する。ウルヴィノのモンテフェルトロ候やメディチ家のコジモの残したストゥディオーロが贅を尽くした例になる。イザベラのストゥディオーロはユマニストの意見を集め、ギリシャの神々に自身を見立てたり各所に寓意を嵌めこめるというコンセプトが採用される。発注はコンペ形式で当代随一の芸術家たちを選ぶことにした。

  少女時代から秘めていた夢の実現を飾る第一作、[パルナッソス]の工事が新婚早々のイザベラの元で始まった。マントヴァ宮の第一画家だったマンテーニャの起用は当然の人事だったはずだが、ルネッサンス期最高の教養を備えた女性と評判も高い10代の女性メセナと60代後半を迎えた画家の共同制作の場面が思い遣られる気持ちもする。まず画面中央に自然の岩を刳りぬいたアーチが、どんと置かれる。その頂点に軍神マルスと美神ビーナスの姿で、イザベラと夫のフランチェスコがすらりと立つ。2人の完璧な調和を象徴するように、後方にはレモンとオレンジの木の衝立とベットが置かれ、ベットの上には二つのクッションが重なる。この仲の良いカップルと対象的な登場人物が、左側に描かれた暗い洞窟の鍛冶場から嫉妬に狂い登場してきたウルカヌスだ。ウルカヌスは生来の醜さ故に実母のヘラからも疎まれ、更に彼女の謀略がオリンポス最高の美神ビーナスとの不幸な結合を招く。洞窟の上の燃えるような赤い堅牢な岩が彼のやり場のない怒りを象徴しているようだ。ビーナスとマルスとの間に生まれたキューピットも金色の矢と吹子を突き出して揶揄している。

  画面左の小さなドーナツ型の円筒を数段重ねたような長閑な丘が、この絵のテーマのパルナッソス山に違いない。いたる処に心地の良さそうな洞穴が開く。ウネウネする散歩道には、一条の滝も流れる。丘には詩人たちが住み、降りてきたアポロンが竪琴を奏でると美しいミューズたちも連られてダンスを踊り初めている。何となくリドのショウでも見ているような気もしてくる。同時代のボッチィチェルリの描く夢の様に優雅な舞姫たちに比べると、マンテーニャのミューズたちはしっかりと地に足を踏ん張って踊る健康な女たちなのだ。ミューズたちの背景には完璧な遠近法で田園の風景が広がる。

  蛇と羽を冠した杖を右手に、左手には牧神の笛を持つメリクリウス(ギリシャ神話のエルメス)がペガサスの馬を控えて画面の右側から登場して来た。文芸、商業、泥棒、浮気の神、レパートリーの広い青年神が被る羽付き帽子が枢機卿の赤い帽子になっている。当時、俗界のプリンスが聖界のプリンスになることは日常茶飯のことだったから、16歳で枢機卿になったイザベラの実弟イポリットが古代風の長靴まで履いて出て来たようでもある。イサベラのストゥディオーロの宝石コレクションはルネッサンス期の宮廷人の垂涎の的だったと言われる。するとペガサスのたてがみに絡まる多彩の宝石なども由緒ありそうな気がしてくる。

  ペガサスは、自身のひずめの一撃でヒポクレスの泉を湧かしたと言われる。その泉が足元に清冽なグリーンで彩られた。マンテー二ャの自然描写、特に地面を描く時に類希な情熱が発揮される。まるで地の内部を覗き見るような驚くべき自然観察力。しかも、そこに優しさを忘れることがない。地面から草が芽生えて来たのを早くも嗅ぎつけた針ねずみが這い出てきたようだ。数匹の白うさぎたちは未だ寒そうにして丸くなったまま、穴からじっとこちらを伺っている。古代ローマ時代の毎年2月2日に冬眠を終えた針ねずみが土から出てくるのを観察し、なを躊躇するようなら春が来るまで6週間は掛かると判断した。春の到来を知るための古くからの慣習だそうだが、これが現代でも通用するらしいのである。土着性の高い北イタリアの自然と人間の関わりかたが知られ微笑ましいではないか。



  イザベラのストゥディオ-ロの壁面装飾はマンテーニャの手になる2作品から始まり全7点のシリーズ物として30年後に完成を見る。この間に4人の画家たちが参加する。そのうち彼女が特に懇望した画家が流行作家のぺルジアノだった。彼の描いた[愛と貞節の戦い]はマンテニャの緊張感のあるリヤリズムに比べると何処か間の抜けたような優雅な画法で描かれている。彼女がマンテーニャの画風に必ずしも同調していなかったと思われる理由は他にもある。ラフアエロの父親のジョヴァンニ・サンティ、先に挙げた巨匠ダ・ヴィンチ、べニスの画家ティチィヤーノを始めとする多くの画家たちに自身の肖像画を注文している。しかしマンテ-ニャの手になる肖像画は一枚もない。それ処か「パルナッソス」も、シリーズ中の2点を受け持ちマンテーニャの死後、第一宮廷画家に登用されるロレンゾ・コスタに注文して、甘く優しい神々の顔に描き直させてしまった。しかし硬質な老境の画家に、これほど天真爛漫な傑作を生ませたのはイザベルの若さ故の強引とも思えるパッションだったのだ。私は「神の王国」が総てだった中世期から「人間の王国」へと扉へと開いてくれた[パルナッソス]の前に佇む度にルネサンスの足音を聞いた人々の喜びを直近に聞く思いがし、同時にヒューマンな良き時代の画家とメセナの一期の出会いに感謝したいような気持ちになるのだ。


SHIMADA-TAERON MASAKO
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