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■ピレネーとポーの街


ピレネーの山

ピレネーはフランスとスペインの国境に位置し400キロの山脈が大西洋から地中海にかけて平均標高1008mで広がっている。3000m級の山が多々あるがトップはPic d'Anetoの3404m。
ピレネー山脈はおよそ2億5千万年前、中央山岳地帯やアルデンヌと同様、ヘルシニア期に形成されたがPlaque ibérique と plaque continentaleのあいだの不安定な地域に位置し、およそ2億年前に地殻変動が起こり、2つのプレートがぶつかり合い3000m級の険しい山脈が生れた。
地形はフランス側では特にGavesとよばれる急流が流れ落ちスペイン側より険しい。
気候はピレネーの南北で異なり、フランス側は降雨量が多く、スペイン側は乾燥している。
また東西でも違いがあり、西側は海洋性の気候で植物が発達し、東側は乾燥している。
1500以上の植物、うち300種はこの地域のみに生息する。
フランス最後の熊、野生ヤギの生息地で、猛禽類も多い自然の宝庫である。
フランス国内で6県にまたがっているがその一つ Pyrénées-Atlantiques の首都がPau。

Pau (住人はPaloisと呼ぶ)

人口約9万、都市圏全体で14万人。アキッテンヌ地方第二の都市。
Gave de Pauの北側に発達し、1.5kmのBd des Pyrénées中心に西側にお城周辺の旧市街、東側はPalais Beaumont(カジノだった)、さらにTréspoey地区に19世紀イギリス人の住み着いた地区。北は新地区(大学、Cité Multimédia、Palais des sports, Zénithなどがある。)南はJurancon.Pauの歴史は比較的浅く、11世紀以前のことは不明。
Pyrénées山脈の通路の監視地点として、杭(paè)で囲まれていたところから、Pauとなった。Bearn子爵の狩猟場でもあった。
その後、地勢の重要さ、美しい地形により重要さを増し、Gaston Phoebusの時代にはBéarnは独立国家となり城砦エンジニア、Sicard de Lordatによる城砦が生れた。百年戦争時代も中立を守り続け英国に占領されなかった。1450年以降、Pau はBéarnの首都となる。
ナヴァール王、Henri d'AlbretとFrancois Ierの妹Margueriteとの結婚により、城砦はルネッサンス様式の宮殿に作り変えられ、華やかな宮廷生活、その美しいルネッサンス庭園はヨーロッパ中に知られていた。 彼らの娘、Jeanne d'AlbretがAntoine de Bourbon と結婚し、その息子Henriが最後のNavarre王となる・・・Pau最大の有名人。
1553年生まれ、Pauの城内に彼の使用した亀の甲羅のゆりかごが残っている。お爺さんのHenri d'AlbretがにんにくとJuranconでBéarn式の洗礼を与えた事で有名だがここには8ヶ月しか住んでいない。
ヒューマニズムに凝ったMarguerite de Navarre の時代からカルヴァンの教えが広まっていたが、特にJeanne d'Albret は1562年Antoine de Bourbon の死後、新教を公式に認め、旧教を排斥した。
Henri自身も若くして、プロテスタント軍の指揮を執った。1572年Jeanne d'AlbretとCatherine de Médiciの発案で新教・旧教の和解の為Margoと結婚。
結婚後も1576年まで宮廷に軟禁された状態だったが1584年Alencon公の死により、事実上王位継承者となり、1589年Henri IIIの死により、フランス王になるがその後も宗教戦争は続いた。1593年St Denis で改宗し " Paris vaut une messe "という有名な言葉を残した。 生涯、必要に合わせて7回もスピード改宗した。
1594年Chartresで戴冠式、パリ入城を果たし、30年の争いで荒れたフランスの建て直しに努力したが1610年暗殺された。
Pauの城内にHenriを助けた女性、Corisande d'Andoins = Duchesse de Gramont . " Belle Corisande "の肖像画がある。知的な雰囲気の意志の強そうな美女。
Corisande は26歳で未亡人となり、Montaigneと友好もあった。Henriとは1582年、Pauで知り合った。丁度MargoがPauを去った後だった。 50人以上いたと言われるHenriIVの愛人達の中でも一番難しい宗教戦争時代、Henri IV が王位に付くまでの時期、戦争資金調達でも活躍した女性、二人の間に生れた息子は1590年、馬上槍試合で事故死した。
Louis XIII時代 Navarreはフランスに併合された。


ポー城


アンリ4世


コリサンドの肖像


ポーの街

街の中心にあるPlace Royal はLouis XIV時代、Nantesの勅令廃止以降造られ、王の騎馬像が在ったが、革命で壊され、現在はHenri IVの物に置き換えられている。 革命時、Pau市民は共和政府に賛成したが王の処刑には反対した。
Napoleonは1808年、兄Josepheをスペイン王位に付けた後、Pauに立ち寄りピレネーの美しい山々にほれ込んでPyrénées山脈の方向に向けて街の大改造を開始、街の中心のPl Royale の壁を壊させBd des Pyrénéesの基礎が準備された。( 完成はN III時代 )
ちなみにNapoleonの部下でスエーデン王になったBernadotteはこの街出身のもう一人の有名人。
街の中心部にその質素な生家が残ってい、スエーデン国旗が掲揚されている。
Napoleonの失脚後、英国軍は解放者として迎えられ、Wellingtonとその部下達が定着し、イギリス人コロニーを形成していく。
特にAlexander Taylorという元軍医がPauの気候やPyrénéesの水が健康に良い事を広め、ヨーロッパ中から裕福な冬の保養客が集まり300余りの広い庭園に囲まれたパレスを建て、ゴルフやポロ、クリケット、テニス場や競馬場も造られた。
Alfred de Vigny, Frantz Lizt, Lamartineなども滞在したが、LamartineはStendhalあての手紙でPauの美しさを称え、"Naplesが海の景勝地なら、Pauは山の景勝地・・・ " と書き送った。
19世紀末、イギリス人はBiarritzに移動し、代わって裕福なアメリカ人達が集まった。
Pauは彼らによって航空機技術の中心地となる。1903年、Wilbert Wrightは飛行成功後、Pauに初の航空学校を開校した。Louis Blériotは彼の愛弟子。
以来、伝統的な農業関連産業以外に、航空機産業、また1951年以降Pau郊外、Lacqの天然ガス発見のおかげで大いに発展を遂げ、石油化学産業も盛ん。 現在ヨーロッパ初のtres haut debit 10/100 Mb/sを設置中。ハイテクの先端を行く都市・・Pyrénéesのシリコンヴァレーになるか??
19世紀以来、庭園の多い都市で、住人一人当たり80m2もの緑地帯を持つ庭園都市でもある。街の中心を東西に貫くBd des Pyrénéesからの山の眺めはなるほど美しい。


徳本 真知子
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