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■ブロワ城1588 ギーズ公暗殺事件と宗教戦争

  中世もいよいよ終末の15世紀末になると、協会ならびに聖職者の腐敗。堕落の弊はますます深刻化し、目を覆うばかりであった。ドイツ、フランスなどの北方諸国は未だ中世のとばりに閉ざされているとはいえ、既にイタリアではルネッサンス運動が興り、ギリシャ、ローマの文献が掘り起こされ聖書研究が盛んに行われていた。折からグーテンベルクによって発明されたばかりの印刷術は、これらの成果を広くヨーロッパに伝え、教会を批判し改革しようという、大きなうねりが正に巻き起ころうとしていた。この一触即発の危機的状況の中で、点火役を演ずることになるのが免罪符の販売である。おふだを買えば救われるという信仰の卑俗化、歪曲化は、それまで眉をひそめていたルターらの良識派をついに起ち上がらせ、ここに宗教改革運動が始まった。
  ルターに少し遅れてカルヴァンが出るが、ユグノーと呼ばれるカルヴァン派とカトリックとの争いがフランスの宗教戦争である。
  初めは宗教上の教義をめぐる争いであったが、やがてすべての階層を巻き込む政治闘争、権力闘争へと転化していく。
  既に1560年に安保わー図の陰謀事件が起こり、宗教戦争の胎動は始まっていたが、その2年後のヴァッシーの襲撃事件を契機に、本格的な宗教戦争に突入する。この戦争は36年間続くが、その最中の1588年にブロワ城中で行われたギース公爵暗殺事件は、この戦争の優勢を決する一つの重要な政治的事件であった。
  ギース家は1559年に、フランソワ2世の王妃の外威として権力を掌握するが、2年後の国王の死によって一時的に後退する。しかし依然として、政界に隠然たる勢力を保ち、特にアンリ3世の時代(1574年〜1589年)になると、ギーズ公アンリは、ユグノーの首領であるブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)と対抗するカトリックの旗頭として、弟のロレーヌ枢機卿と共に、フランスの政界、宗教界を牛耳る実力者として国王の存在を脅かすまでになった。
  1588年12月、ブロワに三部会が召集されたが、ギーズ派はこの会議に多数を占め、数を頼んで王を退位させ、ギーズ公アンリを新たに国王に擁立しようと目論んだ。この計画を知り、恐怖にかられた国王アンリが、これを防ぐ唯一の手段として乾坤一擲、ギーズ公アンリの暗殺を図る。これが、ブロワ城中で行われたギーズ公爵暗殺事件の背景であった。
  1588年12月23日の朝はとりわけ寒気が厳しかった。夜を徹して女とすごしたギーズ公アンリは疲れていた。そのせいか寒さが余計身にしみた。ぶるっと身ぶるいをして部屋の片隅の暖炉に」歩み寄ったアンリは、横に積み上げてある薪の2,3本をつかんで暖炉の中に放り込んだ。消えかかっていた燃えさしから、パッと灰と火花があたりに散った。やがて息を吹き返した火種は、パチパチと勢いよく燃え始め、暖炉の上に施された数代前の国王の火トカゲ紋章が、真実火を吐いているように赤く光って見えた。
  「閣下、国王陛下が書斎でお待ちです。」という幾分緊張に震えた声を聞いたのは暖炉を背にしたギーズ公が数人の同僚と会議を始めたばかりの時だった。椅子から立ち上がったアンリは窓辺に歩み寄り、勢いよく窓を開け放った。粉雪混じりの冷たい空気が、アンリの火照った顔に吹きつけ、一瞬で眠気がとんだ。外は一面の雪だった。閣議の間を出たギーズ公は、王の寝室を通り王の待つ書斎へと歩いて行った。寝室には数人の王の衛兵がたむろしていた。彼らの目に宿るただならぬ気配に一瞬疑念が走ったが、睡眠不足で思考力の落ちたアンリの脳裏からすぐ消えた。たとえそんな悪条件でなくとも、この2mを越す大男のギーズ公は、そんなことを気にもかけなかっただろう。王の書斎に入るや数人の抜剣した男達の姿が目に映った。「しまった!はかられた!」事の重大さをここで初めて悟ったアンリは、後ずさりしながら部屋から逃れようとしたが既に遅すぎた。数人の兵士がアンリの退路を塞いでいた。「国王があなたのお命を狙っています。お気をつけ下さい。という忠告が一瞬頭をよぎった。この耳打ちを笑いとばして聞かなかった自分が悔やまれた。数人が一ぺんに打ちかかってきた。とっさに身をかわしたが、幾太刀かはよけきれなかった。夢中で何人かを投げ飛ばしたが、だんだん目がくらんできた。戦いの舞台は王の寝室に移っていた。血まみれのアンリはまるで阿修羅のようだった。しかしさすがのアンリも、多勢に無勢では勝目はなかった。おまけに、不意打ちをくらった時の手負い傷が、だんだんきいてきて、次第に動きが鈍くなってきた。この機を待っていた刺客達は、すかさずギーズ公の心臓に止めの一撃を加えた。それで終りだった。凄惨な大活劇はあっけなく終った。大した時間も経っていなかったが、居合わせた人間にとって、それは途方もなく長い時間のように感じられた。バタバタとした伝令が、成行き如何と息を詰め待ち構えている王のもとに走った。王は息づかいも荒く、緊張に青ざめて足早に入って来た。部屋は乱闘の跡も生々しく、家具類が散乱し、致死引きがあたり一面に飛んでいた。この凄惨な場面に横たわるギーズ公アンリを見下ろしながら、国王は、「うーん何という男だ!生きている時よりもっと大きく見えるとは!」とつぶやいた。その足で国王は母親のカトリーヌのもとに赴いた。過去30年フランスの政治を動かしてきた気丈なカトリーヌも、年老いて死の床に横たわっていた。自分の寝室の真上の部屋で、いましがた行われた大騒動は、天井一枚を通して彼女の部屋に直に伝わってきた。息子のただならぬ様子は、衰えたとはいえ聡明なカトリーヌにその思いを確信させた。「母上、パリ王は死にました。」という息子の簡単な報告を聞いたカトリーヌは、「おまえが無王にならなければいいが…」と答えた。事件の翌日、既に捕らえられていたギーズ公の弟ロレーヌ枢機卿も処刑され、二人の遺体は焼かれ、灰はロワール川に撒かれたという。
  カトリーヌの予言と不安は的中し、国王アンリ3世は翌1589年の8月1日、狂信的なカトリック修道士ジャック・クレマンの凶刃によって倒れる。かくてカトリーヌが、30年間、ヴァロワ家の安泰と繁栄を図り心血を注いだ努力は水泡に帰し、漁夫の利を占めて新たに歴史の主役として登場するのが、ブルボン家のアンリ4世である。
  こうして歴史の舞台はロワールを離れ、再びパリに移り、やがてフランスは、アンリ4世の孫の太陽王(ルイ14世)の時代、つまりフランスの最盛期ヴェルサイユ時代を迎えるのである。



フランソワ一世翼


ルイ十二世翼


三部会の広間


ルイ十二世像


中庭


広間




カトリーヌ王太后の執務室


カトリーヌ王太后の寝室



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