TOPページ  >>  パリ近郊・芸術家に愛されたイルドフランス  >>  バルビゾン


■バルビゾン







パリから南へ、リヨン方面を目指して高速を飛ばし、フォンテーヌ・ブローに向けて国道に乗り継ぐと、小一時間ほどで広々と地平線まで見渡せるほどの平野に出ます。
八月の頃、黄金色に輝く麦畑の刈り入れは終わり、落穂を拾い集める農民が三人、そこに現れます、ええ、もうすぐ現れます・・・日暮れの時刻、あそこに見える教会の鐘楼から鐘が鳴り響く・・・農民夫婦が晩のお告げの祈りをしている。そこに画架を立てかけ、夢中になってデッサンしているのがミレーさんです。








教会の鐘楼がだんだん大きく見えて来て、あれがシェーイ、昔の街道沿いの宿場の村。
国道を右に抜け出るとバルビゾンの村、そのすぐ先がフォンテーヌ・ブローの森。そこに「ガンヌ親爺の民宿」があったのです。貧乏画家たちがサッと森に出て、仕事に励むには打って付けの民宿。その先右手にはテオドール・ルソーの家とアトリエ。
ミレーさんがやって来て、「しばらく留まることに決めた」と云ったのが1849年。そのまま25年、死ぬまでこの村に居座りました。で、ミレーが家族と共に生活し、仕事し、亡くなった家がそこにあります。








中に入れてもらいましょう。ええ、遠慮は要りません、ミレーさんは親切な人で、若い画家たちの手ほどきも気さくにした人です、それに浮世絵を好み、大変日本びいきだったのです、まさか百数十年後にこうして日本人がワイワイやって来ようとは夢にも思わなかったでしょうが。
入るとすぐにアトリエ。ほら、「晩鐘」のオリジナル・デッサンがそこにある。次の部屋は食堂。左に暖炉、その右に自画像のデッサン。窓の外に階段が見え、上が寝室。持病の偏頭痛が悪化し、そこで亡くなったのです。1875年1月20日午前6時。そこの柱時計はその時止まったわけではありません。








隣り村シェーイにも行ってみましょう。
「晩鐘」でチラッと見える教会も中々シンプルで趣きがあるのです。
シェーイにも民宿がありました、今も残っています。「シュヴァル・ブラン(白馬)」、「リヨン・ドール(金獅子)」。シスレー、ルノワール、バジル、モネ(ここで「草上の昼食」を描いた)、その他多数が滞在し、活動した。
それでは、その先の墓地に行ってみましょう。ミレーがテオドール・ルソーと仲良く枕を並べて眠っています。


2003年、戦争と疫病(SARS)の影響で旅行者は激減し、ミレーの家の保存は危機的状態です。日本からも沢山の人々がこの素晴らしい地を訪れ、保存にも貢献するよう期待されています。


KUROSAWA Osamu
>>プロフィール



本サイトはフランス日本語ガイド通訳協会(AGIJ)の公式サイトです。
紹介頂く分にはリンクフリーですが、個々の記事、写真等の無断転載はお断りします。