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オスマン大通り(パート2
ロワイヤル通り
シャンゼリゼ
カピュシーヌ大通り "Boulevard des Capucines"
スクリブ通り "Rue Scribe"
オスマン大通り "Boulevard Haussmann"
平和通り "rue de la Paix"




■オスマン大通り(パート2)


プランタン全景


レストラン ル・デリ・シュー


贖罪礼拝堂


JA美術館


  この美しいパリの街は、オスマン男爵が生まれていなかったらこの世に存在していなかったことでしょう。フォーブルグ・サントノーレと現在のオスマン大通りの角に彼の館があったそうですが、その館さえも壊して、ともかく、パリの街に直線の大通りを造ると言う彼の熱意には感服です。シャンゼリゼも、セバストポール大通りも彼の偉大な業績です。オスマン男爵に敬意を表して、オスマン大通りをもう一度散策してみましょう。

  オスマン大通りと言うと、パリジャンはすぐにデパートを思い浮かべます。前回でご紹介したギャラリー・ラファイエットと、そしてプランタンデパートです。
  オスマン男爵のパリ改造計画の中心になったのが、オペラ座地区です。サンラザール駅もこの時代に誕生していますし、マドレーヌ寺院から始まるグラン・ブールバールは、パリ中で一番賑やかな通りでした。将来性のあるこの場所に店を開いた二人のそれぞれの創始者は先見の目があります。
  二つのデパートに挟まれて今人気絶頂の店H&Mがあり、このあたりは連日若いパリジェンヌでたいへんな賑わいぶりです。

  プランタンデパートは1865年に創立され、1923年に造られたクーポールは、アール・ヌーボー・スタイルのステンドグラスで飾られ、第一次大戦中は空爆から逃れるべく解体されたそうです。このクーポールと、ルネッサンス式ドームの正面、その下にモザイクでプランタンと書かれているファサードは、歴史的建造物に指定されています。
  このデパートはレストランが充実しており、本館モード館のクーポールの下での食事は勿論のこと、一階には''ラデュレ''もありますし、コスメ・メゾン館最上階で、パリの絶景を眺めながら、最近流行の多国籍料理を味わう事もできます。オープンしたばかりの''カフェ・ビー''(Cafe Be)は、名シェフのアラン・デュカスがプロデュースしている8区の同名の支店で、コスメ・メゾン館3階にあります。ここでは15種類ものパンがあり、イチジク入りパンなど新作パンも登場して、パン好きには嬉しい場所です。店名Beはブーランジェ(パン屋)の''B''と、エピスリー(食料品店)の''e''から取ってつけられた名前だそうです。
  同館一階には、100%オーガニックなヘルシー料理を出している''ビオティフル・プレイス''(Biotifull Place)というこれも又おしゃれな名前のカフェ・レストランがあります。又8月には、モード館3階に回転寿司がオープンの予定です。
  秋には、モード館の5階すべてが靴売り場になるようで、70もの靴ブランドが揃うようになるそうですし、ピノー・グループからイタリアのボルレッティ・グループ(リナシェンテ・デパート系)にオーナーが代わるというニュースもあり、話題を呼んでるデパートです。
  モード館グランドフロアにはパリ高島屋サービスデスクがあり、日本人旅行者の免税書類の作成をしてくれます。

  この少し先の左側に、ルイ十六世小公園があります。この公園の中には、マリー・アントワネットと国王の為の贖罪礼拝堂が建てられています。 ここには既に、1722年に造られた小墓地がありました。フランス革命の犠牲になって倒れたスイス近衛兵達、そしてコンコルド広場のギロチンで亡くなった1343人の遺体も埋葬され、その中には、国王ルイ十六世、王妃マリー・アントワネットの遺体もありました。二人の遺骸の上には、王党派のはからいで生石灰が埋葬時に撒かれていた為に、23年後の1816年1月21日、ルイ十六世の命日にここを掘り返した際、二人の遺骸がすぐ見つかったようです。その後埋葬しなおして、現在、マリー・アントワネットとルイ十六世は、王家の墓所であるサン・ドニ大聖堂に眠っています。
  国王、王妃の遺骸があったこの場所に、王政復古の時、弟王によって建立されたのがこの礼拝堂なのです。祭壇は、国王、王妃の遺体発見と同じ位置の上に造られているそうです。
  革命家マラを暗殺したシャルロット・コルデと、王族でありながら革命派に共鳴し、王の処刑に一票投じたオルレアン公も礼拝堂に通じる階段付近に埋葬されています。(贖罪礼拝堂訪問可能日時;木・金・土 13時―17時)余談ですが、1891年に亡くなったオスマン男爵は、ペール・ラ・シェーズに眠っています。
 
  デパートから凱旋門に向かって進んで行くと、右手に大きなドームの教会が見えてきます。建築家バルタールが、教会建築に初めて鉄骨を使い、1860年から1871年にかけて完成させた建物です。教会前広場には、ジャンヌ・ダルク 騎馬像が置かれています。この像は、ポール・デュボワが彫刻した、ランスReims市のジャンヌ・ダルク像の複製です。
  パリには彼女の像が4カ所にもあります。ピラミッド広場、シャペル通り16番地、サン・マルセル大通り41番地とここにです。

  この先148番地には、企業家マルシャル・ラペールの寄付金によって創られた''ナポレオン財団''があります。

  そして、ようやくお薦めのジャックマール・アンドレ美術館に到着です。モンソー地区と呼ばれるこの辺りは、瀟酒な館が多く、その屋敷を美術館にしている、ニシム・ド・カモンド美術館(家具や美術工芸品の展示)、セルニュスキ美術館(古代中国の美術品など展示)もこの近くです。
  ジャックマール・アンドレイ美術館は、銀行家の家に生まれたエドゥアール・アンドレによって造られた豪邸で、豪華なサロン、タバコ喫煙室、温室から続く壮麗な階段、そして、その各室に飾られているブーシェ、シャルダン、ワトー、レンブラント、ファン・ダイク、レイノルズ、ティエポロ等々,,,19世紀の優雅な社交界の生活を垣間見ながら、最高の美術品をゆったりとした時間の中で味わえる贅沢な場所です。
  二階のイタリアコレクションも見逃せません。
  ここの当主は、肖像画家であった妻ネリー・ジャックマールとヨーロパ及びオリエントの各地を訪れて、美術、工芸品を収集し、それを''賢者のサロン''と言われているフランス学士院に寄付したのです。
  美術館は年中無休です。   ここのカフェ・レストランは、当時、食堂として使用していた場所で、ティエポロの天井画を見ながら、サラダ付きキッシュ、或は自家製タルトなどがいただけます。レストランだけに訪れる人も多く,忙しい方にはお薦めできませんが,優雅なひと時をとお思いの方には、お薦めのとっておきの場所です。

  長いオスマン通りは、この後、道の名をフリードランド大通りと変え,凱旋門まで続きます。
  

松下 光子
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■ロワイヤル通り


コンコルド広場から


ベルナルドー


ラデュレ


マキシム


  ロワイヤル通り(rue Royale)は、パリ8区に属し、コンコルド広場からマドレーヌ寺院までの500メートルあまりの通りで、この道と交差している道路が、かの有名な高級ブティックが集まるサントノーレ通りです。
  このロワイヤル通りの歴史は、当時ルイ十五世広場と呼ばれていた現在のコンコルド広場の歴史と切っても切れない関係です。
 1748年に、パリの市民がルイ十五世の騎馬像を広場に置く事を決定した事を受け、王がその為に1757年にチュルリー庭園の西側の外れの荒れた土地を与えた事から始まります。
  ロワイヤル通りの方は1757年には開通したのですが、広場の工事はそれから5年程続き、1763年6月20日オープン式典が行われています。
  ところが、フランス大革命勃発とともに広場の名が"大革命広場"(Place de la Revolution)と変わると同時に、 ロワイヤル通りの名も1792年には"大革命通り"(rue de la Revolution)と変名余儀なくさせられ、その後、1795年には"'コンコルド通り"(rue de la Concorde)となり、1814年から再び"ロワイヤル通り"と元の名称にようやく戻ることができたのです。
  ちなみに広場の方は、1796年10月26日にコンコルド広場と命名されています。
  現在ロワイヤル通りには、ナポレオン三世時代からの老舗のベルナルド(Bernardaud)があり、ベルサイユ宮殿で王族が使用していた食器の復刻版も買えますし、最近では、ここのアクセサリーが大人気です。
  この横には、銀食器のクリストフル、クリスタル製品のサンルイ、ラリック等フランスを代表する最高級食器店が集まっているたいへん魅力的な場所です。
  今までは個人が購入したくても不可能であった、プロの間で有名なリーデル社のグラスは、今年からベルナルドで手に入るようになりました。

  リーデル社は、250年の歴史を誇るクリスタルグラスの会社で、フランスの有名レストランの多くがこの社の物を使用しているようです。
  1862年創業のマカロンで有名なラデュレ(Laduree)一号店は、ロワイアル通り16番地にありますし、レストランのマキシム(Maxim's)は同3番地です。
  近くのマドレーヌ寺院の周辺には、フォーション、エディアール、キャビヤやトリフ専門店などの有名食料品店が集まり、まさにグルメのフランスを代表するような地区なのです。

松下 光子
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■シャンゼリゼ

  オー・シャンゼリゼ! 誰でも知っているこの大通りは、コンコルド広場から凱旋門まで、全長1880メートル、道幅71メートルの壮大なパースペクティブの大通りです。クリスマス近くになると(11月末から翌年1月初めまで)、プラタナスの並木がクリスマス・ツリーに変身して、突然魔法の世界に入ったようです。このロマンチックな雰囲気の通りで恋人達は新年を迎えたいと思うのだそうです。ちなみに12月31日は、シャンゼリゼは夕方から車乗り入れ禁止になり、たいへんな人出になります。シャンペングラスを片手に、カウントダウンで新年を待ち、年初め最初のキスのご挨拶は"最愛の人"にとの場面があちらこちらで見かけられます。 
  4月のパリマラソン、7月14日の軍隊の大行進、ツール・ド・フランスなどのイベントがあるのもこの大通りです。フランス人は、何か嬉しい事があるとこの道に繰り出してくるようです。第二次大戦のパリ解放のパレード、8年前のワールドカップ優勝の時のジダン達のパレードもここででした。
  シャンゼリゼの命名は1709年で、ギリシャ、ローマ神話の楽園"エーリュシオン"(死後、神々に愛された英雄や高潔な人が再会する地)にちなんで付けられた名だそうです。
  1667年、時のフランス王ルイ十四世の庭師ル・ノートルは、チュイルリー庭園からのパースペクティブを拡大すべく、"Grand Cours"と呼ばれていた場所に、現在のロン・ポワンまで並木を植えた事がシャンゼリゼの物語の始まりです。今でもその伝統が残り、ここまでは緑の多い遊歩道になっています。道路寄りの木が、日本語で"鈴掛け"と呼ばれるプラタナス、奥の木がマロニエです。その後、王室庭園監督官アンタン公爵が、当時シャイヨの丘と呼ばれていた現在のエトワール広場まで道路を延長したのです。1774年には、スフロがこの丘を5メートル削って平らにしますが、その時の土が近くに捨てられ、それが現在のバルザック通りになっていて、この通りだけは急坂になっています。
  ナポレオン一世の時代には、たった六軒の館しか建っていなく、物騒な所だったそうですが、それが1828年8月28日にここがパリ市の所有になると、泉水、遊歩道、ガス灯などが整備され、第二帝政時代には、オスマン男爵により、芝生、花壇などで美しく飾られ,リッチな社交界の人達の待ち合わせ場所となるのです。カフェ・コンセール(音楽カフェ)、サーカス小屋、パノラマ館、レストランなどは、いつも富裕階級の人で賑わっていたそうです。
  では、これから皆さんとご一緒に"銀ブラ"をまねて"シャンブラ"にまいりましょう。コンコルド広場から凱旋門に向かって行きます。ちなみにパリの番地の表示は、セーヌ川に近い方から始まり、右手が偶数、左手が奇数です。セーヌから遠い所は、広場から番地が始まります。
  まずは、コンコルド広場の躍動的な彫刻、"マルリーの馬"(ギィヨーム・クストゥー作)をご覧下さい。これは1795年にマルニーの城館からここに移されたのですが、ルーヴル・リシュリュー館の完成と共に、オリジナルはルーヴル美術館に置かれてます。ここからは緑の多い気持ちのいい散歩道です。作家プルーストも当時流行のこのあたりを散策したようで、右手は"マルセル・プルースト遊歩道"と名付けられています。この緑樹の中、左手に見えてきますのが、有名な三ツ星レストラン"ル・ドワイアン"です。ここにはマリー・アントワネットの時代から田舎風旅籠やがあり、当時は、絞り立ての牝牛の乳を飲みに立ち寄る場所になっていたそうです。 この先左手に、1900年の万博に造られたプチ・パレ、そしてグラン・パレが見えてきます。特にプチ・パレは、4年間の修復をやっと終え、美しい姿を見せています。1900年のパリを味わっていただける美術館で、ドラクロワ、クールベ、モネ、ピサロ、レンブラント等の絵画、十八世紀の家具のコレクション、陶磁器もあり、すばらしい美術館です。常設展は無料というのもうれしいです。閉館日は月曜日です。横には、大一次大戦中の戦士の服装をした当時の宰相クレモンソーの姿です。彼はこの服装で戦地を廻り、兵士達を励ましたそうです。向かいにはド・ゴール将軍の彫刻があります。
  右手には、ル・ノートルのカフェ・レストランがあり、ここでは料理教室も開いています。この先の公園では、昔ほどは賑わってはいませんが、木、土、日曜日に切手市が開かれます。
  左手には、第二帝政の公共施設だった"Jardin d'Hiver"(冬の庭園)が見えます。ここは初めはパノラマ館となり、二十世紀まではスケート場でした。又、音楽家のサックスが、ここで新しく開発したサキソフォンを演奏したりと、話題の絶えない場所でした。このあたりで緑の多い地区が終わり、ロン・ポワンからがシャンゼリゼの商業地区の始まりです。
  ロン・ポワンの左手が、世界中の富裕層の人がショッピングに来るモンテーニュ通りです。
  車好きの方は、右手のシトロエン、左手のルノーのショー・ルームをのぞいてみてはいかがでしょう。凱旋門の近くにはプジョーもあり、他にべンツ、トヨタのショウー・ルームもあります。ちなみにシャンゼリゼは、名古屋の百メートル道路(久屋大通り)と姉妹道路にもなっています。
  第二帝政時代の個人邸宅でただ一つ残るのは、25番地のパイヴァ邸だけです。ここはポーランド出身の魅力的な女性の館で、彼女はポルトガルの侯爵夫人になった後、プロイセンの伯爵夫人にもなった波瀾万丈の人生を送った女性です。この館で夜な夜な夜会が繰り広げられたそうです。
  この横27番地は、PSG(パリ・サン・ジェルマン)のオフィシャル・ショップで、サッカー・グッズは勿論の事、チケットも試合15日前から購入できます。ここは日曜日もオープンしています。
  ルノーのショー・ルームの少し手前は、アルザス料理のシュークルートを食べさせてくれるレストラン・アルザスです。ここでは生ガキもいただけて、年中無休、ノンストップサービスもうれしです。
  右側46番地にデズニー・ショップがあり、日曜日でも開いています。この先には、ハリウッドスターの店カフェ・レストランのプラネット・ハリウッドがあります。
  その真向かいに去年オープンして話題になった、ハイネッケン社のビールに捧げたコンセプト・ストア、"Culture Biere"(ビール文化)があります。館内1100平米が、一階から三階まで、バー、レストラン、ラウンジ、サロン、テラス、ブティクと分けられて、好みの場所で、ビールと共に楽しいひと時を過ごせます。
  この先には、マカロンで有名なラデュレ、そしてカフェ・フーケッツと続きます。フーケッツの入り口の地面には、著名俳優の名が彫られています。セザール賞(フランス版アカデミー賞のようなもの)の時には、このあたりで有名俳優に出会うチャンスもあります。このカフェはバリエール・グループが買収し、裏にフーケッツ・ホテルを工事中で、最高級ホテルが誕生する予定ですので、又話題を呼びそうです。フーケッツと同じ建物の上階には在仏日本人会もあり、多種多様な相談から、文化教室なども開設していて、在仏日本人のための支援活動をしています。この先がルイ・ヴィトンの本店です。
  ヴィトンの向かい側に有名なナイトクラブ・リドがあります。最近オーナーが替わり、バトー・パリジャンと同じ系列化に入りました。フランスで急成長の会社で、プレスティージュな会議、レセプション、スポーツイヴェントにハイレベルな食事を提供していますので、今後はリドでも美味しい食事が期待できるのではないでしょうか。今年はリド60周年記念の年に当たります。ディナー付きショーは19時からですが、ショーのみは、21時30分と23時30分からの二回です。100人ものダンサー、アーチスト達が、歌、ダンス、マジックなどで華麗なショーを繰り広げ、華やかな、忘れられないパリでの一夜になると思います。 リドの先154番地は宝飾店カルチェです。このシャンゼリゼ店は、ヨーロッパ最大なのだそうですが、売り場面積が一番大きいのはやはり日本の店だそうです。 そしてやっと凱旋門に到着です。カフェ・テラスで籐椅子に座り、行き交う人々を眺めている貴方はもうパリジャン!シャンゼリゼはそんな思いにさせてくれる、フランスが世界に誇る大通りなのです。


松下 光子
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シャンゼリセ全景


ロンポアン


プチパレ


トヨタショールーム


リド




■カピュシーヌ大通り "Boulevard des Capucines"







  パリを代表する賑やかな大通りで,写真を見てもお分かりのように観光バスが並ぶほどツーリストが買い物を気楽に安心して楽しめる日本の免税デパートもあります。カプシーヌ大通りはいわゆるグランブルヴァー(Grands Boulevards:マドレーヌ寺院からバスチーユ広場までの大通り)のひとつです。ブルヴァーとは昔の都市壁を壊してできた大通りを通称します。ルイ14世の治世に都市壁が取り払われ、カピュシーヌ大通りができました。1685年のことです。王はこの界隈にカプチン会の修道院を造り与えました。もともとカプチン会修道院は1528年イタリアのナポリで生まれたものでフランシスコ(アッシジアのフランチュスコ;キリストの聖痕を受ける絵と輿紐を三つ結びした姿で知られる)派の規律によって成り立っていました。このようなカプチン会の修道女を呼んだのはバロワ朝最後の王妃ルイーズ・ドゥ・ロレーヌ(Louise de Lorraine)の遺言をかなえるためでした。夫君の王アンリ3世は暗殺され、二人には世継ぎがなかったのです。又18世紀にはこの修道院にポンパドール夫人が埋葬され、フランス大革命時にはアッシニア紙幣を造っておりました。カプシーヌ(イタリア語ではカプチン)大通りの由来はカプチン修道院から来ているのです。
  番地の若い順にこの通りを散策しますとオペラ座、カフェ・ドゥ・ラペ(ミルフィーユで知られる有名なカフェ)、オランピア劇場(シャンソンの殿堂)と見えてきてきっと楽しくなることでしょう。目立ちませんが35番地に絵画史上すごく大切な建物が原型をとどめて残っています(写真)。1874年、売れない芸術家たち(画家・彫刻家・版画家)が集まって展覧会を行った写真家ナダールの建物です。この時に出品されたのが34歳の新進画家モネの『印象・日の出』(現在マルモッタン美術館)でした。ここは印象派という言葉が生まれたところなのです。




■スクリブ通り "Rue Scribe"







  スクリブ(1791−1861)はフランス史の劇的変遷期に生れた人です。パリで生まれてますのであらゆる事件を生々しく見聞しているはずです。生まれた年にはマリーアントワネットが国外逃亡を企てています。少年期にはナポレオンにあこがれたはずです。青年期にはブルボン家の復帰を見ており、壮年期には二つの革命に遭遇し、そしてナポレオンの甥がクーデターを起こしナポレオン三世と名乗ったときには60歳になっていました。。
  そうした劇的な時代にもかかわらず、法学を捨てた彼は大衆的な演劇作家の道へと進み『熊とパッシャ』、『セザールおじさん』などで成功を収めていきます。やがて彼はオペラやオペラコミックのための作品を創作するようになります。『白い貴婦人』は彼の傑作です。オペラ座に接して走るスクリブ通りは彼のこうした功績を讃えて、彼の死後3年後に造られた通りに彼の名前が冠されたのでした。
  rue Scribeは邦人ツーリストがよく利用する通りです。最初の写真にはよく邦人が宿泊するホテルがあり、奥に空港行きバス停、デパートやオペラ座の尖塔が見えています。二番目の写真にはよく利用する両替銀行や無料の香水博物館が見えています。奥にはカピュシーヌ大通りで紹介した印象派の建物が控えています。今ホテルになっている建物の地下では1895年(映画誕生の年)にルュミエール兄弟による映画鑑賞会が行なわれて<死は絶対的であることを止めるでしょう>と言われました。スクリブ通りは大通りと比べて目立ちませんが昔も今もかわらず裏方の主役なのです。




■オスマン大通り "Boulevard Haussmann"



  ジョルジュ・ウジェーヌ・オスマン男爵(1809−1891)の名がついた、8区、9区を横断する<Boulevard Haussmann>はル・グラン・ブルバールと交差する銀行の多い地区から始まり、ギャラリー・ラファイエット、プランタンデパートなどフランス有数のデパート街の前を通り、ジャックマール・アンドレ美術館のような瀟洒な館の多い凱旋門に近いモンソー地区まで達しています。



  この大通りは19世紀、ナポレオン三世のパリ大改造計画の重要な区画整理地区で、その為オスマン男爵は彼自身の家をも壊させたほどですから、パリの市民も立ち退きを強制されても文句は言えなかったようです。しかし、すでに存在している家屋、道など大鉈を振って破壊したのですから、行政的にも、経済的にも、技術的にも困難が伴い、ナポレオン三世失脚と共に、オスマン男爵はコルシカ島に左遷されてしまった大政治家です。19世紀の彼の大都市計画のおかげで、中世から続いた無秩序で不衛生なパリの街並みが一掃され、今日私達が美しいと感動するこのパリの街があるのです。大通り132番地にはオスマン男爵の彫像が立っています。



  このオスマン大通りにあるギャラリー・ラファイエットはサン・ラザール駅のオープンによりパリ近郊の客が多くなることを予想し、現在ブシャラ(布地専門店)のある場所・ラファイエット一番地に1893年創業のデパートです。その後、オスマン大通りに次々と店を拡張し、近年メゾン館も加え、三つの建物からなるヨーロッパ一の売上高を誇るデパートになりました。本館一階のネオビザンチン様式の33メートルの高さのガラスのドームは一見の価値があります。屋上に上がるとパリが一望に見渡せ、ここに大一次世界大戦前と第二次世界大戦後、小型飛行機が降り立つというイベントもあったそうです(パリの上空は飛行禁止なので罰金を払う羽目になったそうですが、、)。デパート本館一階には日本セクションがあり、日本語で免税の手続きが受けられます。パリの殆んどのデパートは、木曜日だけは夜9時過ぎまでオープンしています。(松下光子 Matsushita Teruko)




■平和通り "rue de la Paix"







  <平和>、それは私達が愛する言葉の一つですが、フランス語ではLa Paix(ラ ペ)と言います。そしてパリには<平和通り>と名付けられた通りがあります。
  僅か230mしかないこの通りが穴場の観光バスルートになっているのは、ツーリストの眼を奪う高級宝石時計店が軒並みだからです。
  最初の写真はオペラ座広場方面からヴァンドーム広場のオーステルリッツの塔(43m)を見たものです。塔の上に君臨するのはナポレオンで、実は平和通りが1806年に開通された時にはナポレオン通りと名付けられたのでした。しかし、ナポレオンが1814年、戦いに敗れエルバ島に流されると連合国とフランスとの間でパリ条約なる和平条約が締結されました。戦争に倦み疲れていたパリジャン達が平和を希求し、変名したのがこの<平和通り rue de la Paix>なのです。
  もう一つの写真はヴァンドーム広場から平和通りを見たものです。平和通りは最も高級なショッピングとスノッビスムを楽しめる贅沢な通りなのです。
(協会編集部)





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